私ってこんな人です④

大学生

ものすごく上手でもなく、下手でもなく、ほどほどだったと思います。演奏する機会には恵まれていたと思います。

このころから前述にもありました知的障害を持った男の子がレッスンに来てくれるようになり、レッスンのお仕事をしたり、演奏のお仕事をいただけるようになっていました。

このころの私の中では「特別支援学校の音楽の先生になりたい」という夢から「レッスンをしながら、時々オーケストラや吹奏楽のエキストラの仕事をしたり、マリンバを演奏するお仕事をしていきたい。」と思うようになっていきました。(なんともぼんやりしていますが。)

留学してみたい、大学院に行きたい。という気持ちはあっても、海外に行くなんて思い切ったことは出来ず。私が卒業したばかりのころは母校に大学院が存在せず、(他大学の大学院に行くという発想もなく)「今、与えられていること」に対して一生懸命になりながら過ごしていきました。

結婚

仕事に対してはぼんやりとした希望しかありませんでしたが、結婚に対しては強い望みがあったとじます。

最初に結婚を意識したのは高校2年生の頃でした。(最初に断っておきます。すみません、ドキドキするような恋愛話ではないです。)

担任の先生が「結婚をしたいか?したくないか?それはなぜか?」というアンケートを取りました。

私は「何くだらないアンケートとってるのよ。(ごめんなさい。Y先生。)結婚はするに決まってるじゃない?」と思いながら記入しました。

アンケートの集計結果を見てびっくり。

結婚をしたい。という人たちの理由は「好きな人と一緒にいたい。」と書いている子が多数で、私の意見はその他の意見の中に入っていました。

私の結婚したい理由は…

「老後のため。」

「え???結婚って老後のためじゃないの???」

17歳の私は、衝撃を受けました。

(きっとこれは小学生まで父方の祖父母と、2人を見送った後は母方の祖母と一緒に暮らしていたためだと思います。)

私は20歳ころから「24歳で結婚し、26歳で1人目を生み、28歳で2人目を生み、30歳で3人目を生む!」」という根拠のない計画を人に言いふらしていました。

23歳の時に健康で元気だった、大好きな父を白血病で亡くします。

11か月の闘病生活は家族が一つになり、遠方に住んでいた二人の兄も頻繁に帰り、父のお見舞いをしていました。この経験は私が「家庭を築きたい」と思った大きな出来事の1つだと思います。

20歳の私が言いふらしていたように私は24歳で結婚をすることになり、マリンバを持って浜松へ引っ越すことになります。

実は、言いふらしていた通りの年齢で子どもを産むことになります。最終的には「親を越そう!(ちょっと意味が分からない。)」ということで4人目も生みました。

アメリカへ

2002年に26歳で息子を出産しますが、月に何度か稲沢でレッスンをしたり、名古屋での演奏の仕事の時には母に息子を預けたり、ファミリーサポートセンターでお世話になりながらマリンバを続けていきました。

2003年4月から2004年3月までの1年間、夫の仕事の都合でアメリカのカリフォルニア州サンディエゴに住むことになります。

英語もしゃべれない、右も左も分からない。でも、1歳になったばかりの息子がいる。マリンバは大きすぎてアメリカへは持っていけない。だけどマリンバの勉強はしたい!!「もういいや!何とかなるでしょう!!!」と根拠はありませんでしたが、思い切ってついて行きました。

「私、マリンバをやっていて、マリンバを勉強したいの!」

という私の強い気持ちだけはありました。人から人へ私の気持ちを伝えてもらい、(当時はSNSなどありませんでしたから。)当時サンディエゴシンフォニーのティンパニ奏者であり、ザイロフォン奏者の佐々木達夫先生に出会い、1年ほどマリンバのレッスンしていただけることになりました。

渡米してから佐々木先生に出会うまでの約2か月間は、9歳でマリンバを始めてから初めてマリンバのない期間でした。

それまでなんとなく当たり前のようにマリンバがそばにあったため、「好き」とも「嫌い」とも何も感じていませんでしたが、当たり前のものが目の前になくなり、初めて「あ、私、マリンバ好きなんだ。」「私にはマリンバが必要なんだ。」と気づくことができました。

余談ですが、たった1年というアメリカ滞在期間にいろんな場所に旅行に行き、3人の先生のレッスンを受け、リサイタルを行い、マリンバアンサンブルのコンサートに出演し、その上、第2子を妊娠出産し、生後3か月の娘を連れて帰国しました。後にも先にも、私の人生の中で最もパワフルで目まぐるしい1年だと思います。

サンディエゴのとある小学校の校庭

(ちなみに、きちんとしたプロフィールはこちらです。)